吹奏楽コンクール

   

こんにちは。

 

先日、母校(高校)にレッスンという形で足を踏み入れました。

思い出がじわじわよみがえる。黒歴史がそこにあります。

 

僕は高校生の頃だけ吹奏楽部でした。

そのころなかなか強烈で、周りとよく衝突していました。

こんなお話がありました。

 

 

・・・

高2の前田「結局君らは吹奏楽コンクールでいい結果をとることが目的なんでしょ?」

(やさぐれてます)

 

他部員「違うよ。コンクールも大事だけど他の演奏も全部大事だよ!」

(ピュアです)

 

高2の前田「じゃあ、コンクール前に君らの練習量が一番増えるのは何でなん?」

(ひねくれてます)

 

他部員「・・・。」

(ひいてます)

結果、溝は大きく深く掘られました。

・・・

 

 

前田少年は小学生1年から中学3年までずっとサッカー部でした。

サッカー部時代、試合に勝つことを常に意識して行動していた少年には、芸術という分野を全く理解できていなかったし、勝ち負けがない吹奏楽部の活動や部員の意識が「ぬるく」感じられていたのです。

きっとそうです。

吹奏楽部時代に年中朝から晩まで自主練していた少年は、高1の入部時の【初心者】からみるみる【傲慢】に成長していったのです。

少年自身はコンクールにそもそも興味がなく、『他の演奏も全部大事』と強く感じていたのですが、それに行動が伴ってない部員に対して「喚起の意を込めて」ヤサグレテいたのです。

多分そうです。

 

 

そんな少年も成長して演奏家となり、演奏家として様々な形で吹奏楽部に携わるようになりました。

 

 

なぜ吹奏楽部員がコンクールだけに夢中になりやすいのだろうか。

コンクールに出場する目的はなんなのだろうか。

考えてます。是非一度、考えてみてください。

 

 

コンクールでいい成績をとったというのは、

「コンクールを審査した人間に気にいられた」という意味以外なにでもないのです。

だからコンクールでいい結果を残したければ

「審査員が気にいる演奏」をすればいいのですが、そんなことは音楽において本質ではないことはおわかりでしょう。

 

「私たちには自分の音楽を生涯追求できる幸せがある。もちろん、音楽をすべてわかるなんてことは短い一生のなかではあり得ないが、それでもなんとか努力を続ける者のみが得られる幸せがある。誰かに憧れ、競い、勝ちたいと思うことが悪いことだと思わない。しかし音楽をする喜びは本質的にちゃんとある。」雨宮洋一郎

 

漫画『ピアノの森』からです。とても大事なこと言ってます雨宮パパ。

音楽や芸術の世界では絶対的な価値観は存在しません。

絶対的な価値観があると複数の芸術家が存在できなくなります。

 

近年、「吹奏楽はコンクールの結果が絶対的な価値」だと思って関わる人間が増加していることは危険なことです。

 

僕自身は「コンクール」(個人のコンクールを意味します)自体は好きです。演奏会と変わらず自分の演奏を人前でできる場ですし、他の同世代コンテスタントとも知り合えたりします。出るからには結果にもこだわります。職業演奏家なので結果は未来の仕事に影響します。生活かかってます。その分ヒーヒー言いながら練習します。その練習が自分の能力を高めてくれている実感があり、好きです。

コンクールで受賞した結果というのはいわば、コンクール側からの【保証】です。権威あるコンクールで入賞すれば、コンクール主催者から【お墨付き】をもらえるのです。そうすると、そのコンクールを信頼している人は入賞者を高く評価します。結果、入賞者は仕事が増えます。打楽器は僅かに。ピアノやヴァイオリンはすごく増えます。

こんな結果がついて回るコンクールですが、必死になって練習して上手になれるので好きです。

 

 

しかし吹奏楽部活動においてコンクールの結果で何を得られるのでしょうか。賞をもらったひとに芽生えるものはなんなのでしょうか。

 

【達成感】?それは演奏の中に求めてほしいです。賞ではなく、演奏の出来、演奏のなかでしか体感できないことです。

【優越感】?そんなものは求めて演奏してほしくないですし、求める心は育まないでほしいです。

 

 

 

コンクールの結果がどうであろうと、僕がレッスンをしてきた生徒への僕の印象は変わりません。上手な生徒は上手だし、成長している生徒は成長していますし、伸びている生徒は伸びています。努力の成果はでていますし、努力の分報われています。

審査員に気にいられようが気にいられなかろうが、僕は気にいります。

 

 

どうかコンクールの結果だけが絶対的な価値とならないことを願っています。

 

 

 

 - レッスン, 吹奏楽部